日が落ちて、ぱたりと世界が暗くなれば
夏の夜のうれしさは俄かに翼をひろげ
晴れた琥珀色の星天さへ気まぐれきって燥ぎ出し
何食わぬ顔の下からぺろり、ぺろりと舌を出す
私は魂はこの時、四足獣のむかしを忍び
かつて野にさまよって餌を求った習性を懐かしみ
又、闇黒の喜びにふるえ
秘密、疾走、破壊、飽満の慾に飢い渇く
「ぬき一枚 ー やきお三人前 ー 御酒のお代わり・・・・・」
突如として聞える蒲焼屋の渋団扇
土用の丑の日 ー
「ねいさん、早くしてくんな、子供の分だけ先きにしてくれりや、
あとは明日の朝までかかっても可いや、べらぼうめ」
「どうもお気の毒さま、へえお誂へ ー 入らっしゃい ー 御新規九十六番さん・・・」
真っ赤な火の上に鰻がこげる、鰻がごげる
胃は昼間の疲をやや恢復し
頻りに酸液を分泌すれば
中清の天麩羅の下地にセザアル・フランクの夜曲を味ひ
又、ほどよく黄いろに衣の色はマネエの「鸚鵡の女」を思はせる
けれど、暫時がうちに
食慾は廃頽する
たちまち
何か噎せるような魂の眩暈
むしろ嘔吐
支那蕎麦、わんたん、ふうよんたん
人造牛酪マルガリインはソオスパンにりつき
ひそかに美人を売る
浅草の洋食屋は暴利をむさぼって
ビフテキの皿に馬肉を盛る
泡のういた馬肉の繊維、シウユウ、ライスカレエ
癌腫の膿汁をかけたトンカツのにほひ
酔っぱらった高等遊民の群れは
田舎臭い議論を道聴途説し
ドイツ派の評論家は
文壇デパアトメントストアエを建設しようとする
軽い胃痙攣
それでも、耳にうつくしい
追分の節、尺八のひびく ー
カフェ・ライオンの精養軒アイスクリイムを
激賞するアメリカ帰りの男を捉へて
その平たい四角な頬を撲り
歯に沁み通り、咽喉を焼き爛れす氷水を
脚気衝心の患者のように噛みしめれば
たとえば女の贅肉をひきちぎるこころよさ
色情狂のたくらみの果てしもないように
夜はこうこうとけ渡っても
私の魂は肉体を脅かし
私の肉体は魂を撃して
不思議な食慾の興奮は
みたせども、みたせども
なほ欲し、あへぎ、叫び、狂奔する
眼をあければ
ベルグソンの哲学は青い表紙の中に蹲り
ヒルトの芸術生理学は無用の舌を誇り
好人物のモオクレエルは「我れ猶太人にあらず」と弁解に力め
滑稽な「新訳源氏物語」は唇をひるがえす
一つとして
私の飢渇を充たすに
薄荷水ほどの功徳あるものも無い
むしろ吐いちまへ、吐いちまへ
そして、あぶらの臭気のない国へ
清潔な水と麺麭とのある国へ
慈悲と不思議解脱の領する国へ
この食慾を
みたせども、みたせども
なほ欲し、あへぎ、叫び、
あの美しい国へ、青の不断の花のかをる国へ ー
(高村光太郎詩集より)
https://ja.wikipedia.org/wiki/高村光太郎
https://en.wikipedia.org/wiki/Kōtarō_Takamura
https://www.iwanami.co.jp/book/b249180.html
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