この頃になって、やっとわかったというか、強く思うことがある。
モノの道具の魅力の大半はデザインの良し悪しだということだ。
特に強く思うのが車だ。
自己のアイデンティティを持つための重要なファクターとして
洗脳された世代であり、
社会に出たら、まず車を手にいてることが”常識”とすり込まれた
恥ずかしい時代を生きてきたのである。
”住居”を外せば
生きていくための道具として最大級のものが
車だったのである。
どんな車に乗っているかで、その人の人格まで理解しようとした
今から考えればおかしい時代だった。
しかし、洗脳とはそんなに簡単に溶けるものではないし
開き直って、この十字架を肯定して生きいこうと思っているのも事実だ。
ところがである。
最近の車の中にワクワクするモノがないのだ。
いいなあ〜と思う車がないのである。
どれもこれも同じデザインに見える。
コモディティ化しているのだ。
あえて勇気を持って言えば、
AIとコンピュータモディファイトによるデザインサポートで
ベルカーブを狙うコンセプト縛りの結果といいたい。
どこにもクリエイティビティも造形的なチャレンジも感じない、
結果、面白みも、個性も感じない。
”つまらない”平均的ものとしか見えないのである。
機能美という言葉を取り出すかもしれないが、
そういうレイアーの話ではなく、
我々人はもっと複雑で深く、得体の知れないものであり
普段使うモノたちには目的を満たす事プラス
そこから受ける”感性”や、そこから生まれてくる工夫やひらめきがあり
新しいインプリレーションやヒントまでも生まれてくるのである
例え、ポピュリズム的にな意味や意義から新しさや未来を掲げても
嘘っぱちに聞こえるし、結果、とてもつまらないモノとして
魅力がないのである。
どんどん地域性や民族性も薄くなり、
物真似とさえ言いたくないレベルまで落ちていると感じてしまう。
実は車に限らず
建物も
衣類も
食べ物までも
そう思えてしまうのである。
そして、重要な要因として、そこには『デザイン』が鍵を握っていると思う
そうデザインのレベル、デザイナーのレベル
クリエイティブを担当する者たちの志、魂、チャレンジ心に、答えがあると思えるのである。
こう書いている自分自身にも、このことは刺さるのである。
つづく
https://ja.wikipedia.org/wiki/フィリップ・スタルク
https://en.wikipedia.org/wiki/Philippe_Starck
https://ja.wikipedia.org/wiki/カロッツェリア
https://en.wikipedia.org/wiki/Coachbuilder
https://www.mitsuoka-motor.com/lineup/buddy/
No intention, No design
ZeRo Design
DESIGN de SMILE ! = Connecting beyond the inner.