ISSUE

もっと体験を大切にして自由に感じたままを思考する。

伝統や工芸、

歴史や文化とか、

すごいすごいと感じてきたことや

血統とか、家柄、継承や世襲・・・

あたりまえに、深いく重いことだと、思わされて来たなことに

少し違和感を覚えるようになっている。

もう少し勇気を持って口にすれば、

宗教関連も、団体や組織も、国も、同等の流れではないかと。

そのベースにある思想、考え方やルール、規則や目的感なども

どうして? と・・・思う

違和感や腹に落ちないことが多い。

例えば、近年の流れの一つに民芸運動というのがある

ちょうど100 年ほど前から、

日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に

「用の美」を見出し活用する日本独自の運動として、

柳宗悦を中心とし、陶芸家の河井寬次郎、濱田庄司らによって

大正15年(1926年)に「日本民藝美術館設立趣意書」の発刊を

よりどころに始まったとされているものだ。

現在でも人気は高く、様々なモノやその活動が多方面に続けられている

この”民芸”の『”用の美”を楽しむ』という考え方にも

違和感を感じる



アイヌに文様が美しい民族衣装

定義は難しいものであるが

どうしても『物』としての価値を重視しているように思えてしまう。

”物”から離れて

”使う” という ”行為”

その時間と「同行する経験」が”生きる”ことであり、

そこに、われわれ”人”としての”美”と呼べること(もの)があると思う

そう『用を楽しむことが”美”』

職人気質という次元ではなく、

使う行為、すなわち使うことによる”体験する”ことこそが、

光が生まれ、美しさを織りなすのではないだろうか。

”物”の魅力が大切ではないと言っているのではない、

形なき無形の瞬間”その時”が

『本当の美』として心が豊かになると思うのだ。

行為から始まる経験、体験の喜びと美しさ

『行為的美』

この方がスッキリする。

これをもちろん、

押し付けるつもりもないし、

運動にする気もない。

「こんなに素敵な考え方なのだから、あなたもひとつどうですか?」

ではなく、

それぞれの生き方、楽しみ方、感じ方で良いのである。

時の人、渋沢栄一の『論語と算盤』や、

マルクスをベースにした斎藤浩平氏の『人新生の資本論』にも

何かしら繋がると感じる

ただ、

誤解解釈されやすいのも事実だろう。

そもそも、考え方や、流れが

正しい、正しくない、間違っている、間違っていない、

と言っているのではない。

価値観はそれぞれ、人によって違うわけだし、

一つの考え方にする必要はない。

もっと、多彩で、多面で、自由な解釈で困らない、

考え方も行動も制限するものではなく、それぞれで良いのだ。

体重も身長も、体型も、性格や、好みも一人ひとり違うわけで、

それを求めようとすること自体、エゴであり、

どこかに打算や私利私欲が隠れていると思うようになった。

まあ〜民芸と分類させるモノにも大好きが多くある

これもその一つ湯町窯

民藝運動の英人バーナードリーチが

伝えたエッグベーカー

https://ja.wikipedia.org/wiki/布志名焼



コンロに網を敷き器を乗せ、玉子をポン。

直火でゆっくり3~4分。

器があたたまり、玉子の周りが白く

なってきたら4~5分。

半熟の朝食の出来上がり。

ホカホカの卵朝食が楽しめる

母国では途絶えたスリップウエアー、

今も宍道湖の畔で作られている



https://ja.wikipedia.org/wiki/柳宗悦
https://en.wikipedia.org/wiki/Yanagi_Sōetsu

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